堂島大橋の歴史


水の都として栄えた大阪は『天下の台所』としても有名である。江戸時代には経済の中心であった大阪は内陸へは淀川によって京都とつながり大和川によっては大和と直結しており、水運によって全国の諸藩から米や特産品が運ばれて相場を経て再び各地へ品物が下っていく。今では多くの堀川が埋め立てられたが、かつては大阪市中を縦横に張りめぐらされていた。従って橋の数も多く天神橋・難波橋・天満橋の浪速三大橋を含め205橋が数えられている。中之島・堂島は年貢米の倉庫と諸藩の蔵屋敷が建ち並び、多くの橋は民間の費用で建てられた。現在、存在する中之島・堂島への橋の中で西端に位置する堂島大橋は、明治に入り建設された歴史的には新しい橋である。曽根崎川(昭和42年埋め立て)に架けられていた堂島小橋に対し、明治10年に堂島川に架けられたのが堂島大橋である。当時は橋長83.4m・幅員3.6mの木橋であった。明治18年には淀川大洪水で橋が流出したが、再び木橋として復旧された。

大阪市建設局土木部橋梁課記録より

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大正15年1月8日撮影:左岸(中之島)上流側から右岸を望む(推測)


大正15年1月8日撮影:左岸(中之島)下流側

から右岸を望む(推測)


大正15年1月8日撮影:右岸(堂島)下流側から左岸を望む(推測)


昭和2年に周辺橋梁に先駆けて、市電を通すため現在の形の2ヒンジ鋼アーチ橋として建設された。橋は、橋長75.8m・幅員22.6mの鋼製桁と鉄筋コンクリート床版からなる橋である。


木橋が解体されラーメン橋台の構築が始まった。


昭和 2年 6月 撮影:ラーメン橋台の構築が完了しアーチ部材の架設が始まった。


アーチ部材の架設状況。下を支える支柱(ベント)材は木製である。解体された木橋の部材が流用されたと推測される。



アーチ部材の架設に使用する門型クレーン。部材は木製である。


背景からすると北詰から架設を開始したと推測される。


門型クレーンが対岸に移動。対岸からの架設が開始。



移動した門型クレーンの足下に台車の車輪が見られる。


アーチ部材のハンドリング。ワイヤリングによる部材移動・架設状況。


アーチ部の併合作業。落とし込み完了。添接作業中。



アーチ部の併合完了。足場上で記念撮影。


アーチ部リベットのかしめも完了。柱吊り材の取付作業中。


イタリアンロマネスク様式ラーメン橋台2ヒンジ鋼アーチ橋完成。



建設当時の橋飾塔と街路灯。橋飾塔の前の噴水は現在では出ない。


建設当時の街路灯


親柱は現在も健在



昭和 12年 8月 撮影:建設当時は市電が通り人や自転車・リヤカーが往来していた。